◆軽量化の行きつく先は <10ミリピッチストーリー> 辻 昌憲
◆我が国のプロ選手の自転車 その2 今野 義
◆名松線と今井林道(三重県) 坂野裕彦
380円 112頁
【巻頭】柳沢峠 小川正仁
◆霧が峰の高原道路(長野県)上諏訪~車山 村上秋彦
◆桜の園 ー武田尾への道ー(兵庫県) 内藤恵介
◆神のよる木 その5 やなぎ 小上馬正和
◆ひと目でわかるギア比計算図表を作ろう 伊藤幸雄・一哉親子
◆自転車部品の互換・寸法② ハンドルバーとステムの寸法
塩の道 千国街道(長野・新潟県)南小谷~牛方宿~百体観音~信濃森上
VELO SPOT サイクリングの文章(承前) 今井彬彦
◆近代レーサーの傾向 語り手 沼 勉氏(宮田工業の開発担当者)
・・我々はいくらお金を出しても、ヨーロッパの一流レーサーたちの乗っているような素晴らしい自転車は手に入らないとおもいます。(中略)
レースで大選手が乗るのでもない東洋の日本のために、全精力を傾けたフレームを作らないという事は人情として考えられ、届いた自転車に失望する事もありますね。
まあ、日本に入っているレーサーの中で、まずまず良心的に作って送ってきているのは、デローザ、コルナゴ、チネリなんかでしょうね。・・
【どんな時代?】
ピンク・レディー
1970年代後半に活躍したデュオのアイドル。ミーとケイの2人組。多くの楽曲を阿久悠(作詞)・都倉俊一(作曲)のコンビが手がけた。
デビュー直後にはキワモノ的な見方もされたが、まずは当時の子供たちが振り付けを熱心に覚えて真似をし始めた。
デビュー・シングル「ペッパー警部」は60万枚を売り上げ、1976年の日本レコード大賞新人賞を獲得。この曲では両脚をがに股に開くポーズを含む斬新な踊りが大きな注目を集めた。
続いて発表された「S・O・S」、「カルメン'77」、「渚のシンドバッド」などもすべてヒットし、日本列島に“ピンクレディー旋風”が吹き荒れた。
ウィキペディアより
◆私のジロ観戦記 宮沢清明
・・イタリア生活を始めて三か月。初めての大レース。それもジロ・デ・イタリア。僕は夢中でカメラのシャッターを切っていた。・・
・・500メートル直線コースのはずれからひときわけたたましいサイレンとクラクションがきこえ、人々の声援が嵐のように巻き起こった。その嵐はしだいにこちらに近づいてくる。(中略)
カメラをかまえ、シャッターボタンに軽くのせた指がこきざみにふるえている。後の人達におされ、カメラ位置が一定しない。もう流し撮りもなにもあったものではない。一瞬にして彼等は過ぎ去った。・・
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