ニューサイクリング 図書館

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第22回埼玉国体(1967年12月号)S42

◆夜行日帰り・秩父三国峠越え  萩原慎一

◆第2回サイクリングトロフィーに参加して  高橋行雄

◆自転車の今年の傾向と見通し など 

◆第40回ミラノショウ短信  鈴木正文

 

f:id:jcao:20180707190929j:plain180円 112頁

【巻頭写真】第2回全日本学生タンデム選手権 

【巻頭写真】奥秩父三国峠  原 明吉

◆寒さと高血圧  今井春美

◆グリースの話  二瓶尚士 

 

◆シクリズム概論 16 第1編 第4章レースの運営  鳥山新一

オーダーメイド読本 第8回 自転車の性能  有吉一泰

日光例幣使街道 その1  園尾哲郎

 

# 第22回国民体育大会<埼玉>自転車

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  ロードレースは大宮~川越~正丸峠~秩父~長瀞~小川町~川越~大宮150㎞のコースで行われた。雨の中の激戦となり、79名がスタートしたが、完走者は30名だった。

 

 

 

 

 

【どんな時代?】

 カラーテレビ 本放送開始

 1968年4月からNHKがラジオ契約を廃止してカラー契約を創設することにより、カラー放送を大幅に増やしたことなどから普及が促進された。

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 1968年頃から1970年代にかけて「パナカラー」(松下電器産業)、「キドカラー」(日立製作所)、「トリニトロンカラー」(ソニー)、「ユニカラー」(東京芝浦電気)、「サンカラー」(三洋電機)、「ロングランカラー」(シャープ)、「ダイヤトロン」(三菱電機)など各社から高性能カラーテレビが出揃った。

 

 それと同時に大量生産で値段が下がったことによって爆発的に普及し、1973年にはカラーテレビの普及率が白黒テレビを上回った。

 

 カラーテレビ普及初期の新聞番組表には、カラー放送の番組には「カラー」の表記あるいはそれを表す記号がされ、テレビ放送でも番組開始の冒頭でカラー放送を示すマークを数秒間表示していた。日本で、再放送等を除いて完全にカラー放送となったのは1977年10月である。

     ウィキペディアより

 

 

◆夜行日帰り・秩父三国峠越え  萩原慎一

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・・左側に切り通しが霧の中にすけてみえる。待望の峠だ。切り通しの向こう側に、三国峠の立札が、営林署の立札と共にガスの中から現れる。その向こう側は深い霧、何も見えない。

 

 誰一人いない頂上は、物音一つなく静まり返っている。一日早かったら、埼玉国体の登山の連中が、ここから十文字峠へ賑やかに歩いていたであろう。・・

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