ニューサイクリング 図書館

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座談会 新春よもやまばなし(1972年1月号)S47

◆馬越峠・ブドウ峠(長野県、群馬県) 高橋裕晴 

◆東京 畑峠・二ッ塚峠・小峰峠  後藤  陟 

◆スポーツ車についてのメカニッククイズ 

◆夜汽車の独り言  想田国博 

 

f:id:jcao:20180627080424j:plain230円 72頁

◆法師温泉から赤沢林道へ(群馬県) 枝窪俊夫

◆五ヶ所街道(三重県) 田村陽一

◆路傍の文化財 不動明王について  園尾哲郎

◆まとまらない話(七)  綿貫益弘

 

 八ヶ岳高原での秋  文 樺山邦衛、絵 森田英夫

 山岳サイクリング論争  ※3氏の意見

’71ヨーロッパプロルート競技  千葉洋三

【巻頭】フォト 権兵衛峠(長野県)

 

# 座談会 新春よもやまばなし

    ゲスト 菅沼達太郎氏(昭和の初期からこの道にはいり、数々の名文有り)

        山田鉑雄氏(日本にサイクリングを定着させたメンバーの一人。)

        加藤 豊氏(画家。単独行でツーリングを楽しむ)

        小上馬正和氏(サイクリングでの史実探求などをしている。)

    本誌  今井彬彦

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今井 あれは昭和のはじめ頃ですね。舗装なんかはまるでありませんでしたか。

菅沼 ないですね。甲州街道は新宿を出るともう全々。

今井 ほこりがすごいでしょう。

菅沼 そりゃすごいですよ。いなか道でね。トラックなんかにあうと煙幕のなかにでも入ったよう。ですから風向きを見ましてね。右へよけるか左へ逃げるか。(笑)

 

山田 汽車の輸送なんかはいかがでした?

菅沼 大正から昭和のはじめぐらいは、旅館利用の自転車は一人一台限り無料ということになってましてね。

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【どんな時代?】

 横井 庄一 帰国

 太平洋戦争当時、グアムで生き残った一部の将兵は山中に撤退しゲリラ戦を行っていたが、日本の敗戦は知らなかった。

 

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 横井庄一はジャングルや竹藪に自ら作った地下壕などで生活。1972年、エビやウナギをとるために罠をしかけに行ったところ、現地住民に遭遇、同年2月に満57歳で日本に帰還した。(他の兵隊はすでに死亡)

 

 横井は、帰国の際、羽田空港に出迎えに来た斎藤邦吉厚生大臣に「何かのお役に立つと思って恥をしのんで帰ってまいりました。」と伝えたと言う。

 

 記者会見で発言した「恥ずかしながら帰って参りました」がその年の流行語となった。帰還直後NHKで放送された報道特別番組『横井庄一さん帰る』は、41.2%の高視聴率を記録した。

     ウィキペディアより

 

 

 

 

◆佐久から西上州へ カメラ紀行

 馬越峠・ブドウ峠(長野県、群馬県) 高橋裕晴

・・八ヶ岳の連嶺に初雪の訪れる頃、信州佐久から西上州の山ぶかい里へと、二つの峠を越えた。一つは馬越峠で、いかにも佐久にある峠らしい明るさと気品をたたえたものであった。

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 もう一つはブドウ峠で、こちらのほうは上州と信州の境にある数多い峠の中の一つで、これからおりてゆこうとする里がどの辺りなのか見当もつかぬような山また山の眺めは・・

 

・・その日は、北相木の台岩部落に宿をとった。夏は学生村も兼ねるというこの民宿のおやじさんは、(中略)大きなトックリでまあ呑めとすすめられたまではよかったが、”学生村のあり方”といのを一席ぶたれたのにはまいった。

 

 イナゴの佃煮が肴に出て、おそるおそる箸をつけていると、「これを十匹も食えばセガレが元気になり過ぎる程精力がつく。明日の朝は驚くぞ。」なかなか気さくなおやじさんだった。・・